庄内の街
原点 三島通り (宮交バス停から 願心寺下まで)
庄内で三島といったら、そう あの三島通庸が脳裏をかすめるのではないでしょうか。
三島通庸 明治2年都城地頭として着任した人です。藩政時代の旧家臣たちは旧領主の新地頭着任を願っていましたが、これが入れられなかったため、三島地頭の排斥運動を起こしました。三島は都城を上荘内郷(今の庄内、西岳、山田、志和池、横市)、下庄内郷(都城、中郷)、他を三俣郷と3郷に分け、役館を上庄内郷安永村(庄内)に置きました。
在任僅か2年でしたが多くの実績を残しております。
農地改革(大御支配 領主の土地を農民、下級武士に与えた)、道路の開削、堤防の修復、神社建立、養蚕・製茶など産業奨励、教育の振興等々、藩政時代から明治新政府への切り替え時期として多岐に渡り改革の手を差し延べています。
三島は城山東部を住宅地帯(東区)、その南部に生活物資を補給するための商人、職人、養蚕・製糸などの先駆者などを呼び寄せて住まわせました。これらの人々が住んでいる通りが三島通りと呼ばれるようになり庄内の街の原点になったようです。今の願心寺下から庄内バス停辺りまでで、大正の初め頃には40数件の商店が並ぶ街並み(町区)に発展しています。
(庄内6号持永テル・宇野ユキエ氏寄稿より)
現県道 霧島線はまだ出来ていない。
今の県道 霧島線が出来てバス停から西へ市街化が進みます。清水精米所辺りまが「前田通り」、さらに「神田通り」へと続きます。昭和10年ごろには40数件の商店が並んでいました。現 川久保商店まで県道沿いは殆どが町区に所属しています。
(庄内12号山元正三郎氏の寄稿より)
前田通り
バス停から清水精米所辺りまで
今の宮下医院の裏手一帯や現西区消防車庫の南側一帯は水田で、前田と言っていました。
住宅地帯(神田)の前にある田と言うことから。(現在の前之馬場もそういう意味から。
今村とも言っていた。)この前田に水を引く用水路の痕跡が西区のあちこちに
現存しています。カシタンタンの水田用水路は「前田溝」として名称が
そのまま現在も使用されています。前田政名が開設した前田
用水路の「前田」とは意味が違うのです。
神田通り
前田鍛冶屋さんから関之尾分岐点辺りまで
三島通りを中心にして西へは前田通り、神田通りへと市街化が進みましたが、北へは天神馬場通りへと進んでいます。
天神馬場通り
願心寺北から突き当たりの横山商店辺りまで
昭和の初め頃は製糸工場を始め40数件の商店が並んでいました。
(庄内13号 野崎兼次氏寄稿より)
時代の移ろいと共に「三島通り」などの名称は使われなくなり、高齢者の方が「子供のころそんな呼び方をしていたな」と。
三島氏については庄内小学校の校歌にも「維新の初め三島氏が・・・・」と称えられ、校庭のお軍神には彼の遺徳の碑が建立されています。
車社会となって大型店化した今 三島通りを中心に発展した庄内市街の多くの小売店が閉店を余儀無くされましたが、その昔 盆・暮れ・お寺の行事などのときは隣の市町村からも参集し、三島通りは大賑わいだったようです。