庄内市民センター前の道路越し、農協下に「史跡 釣こう院」と刻字された石碑が立っています。平成4年「庄内昔を語る会」が建立したものです。
それまではここに「釣こう院」という史跡のある事を知る人は非常に少なかったと思います。この石碑が立ってからも「釣こう院」て何だろう。そう思われた方も多かったと思います。
坂道を上って行くと農協倉庫の裏手に出ます。終戦時まではこの辺り 古い墓石が林立していたそうです。今は整理され100坪ばかりの広場に数基の墓が有ります。ここが都城島津家 第7代領主北郷数久の創建に成る島津家の菩提寺「釣こう院」の跡です。これらの墓標は都城島津歴代の墓です。
それぞれの墓の前には石柱が立っており正面に法名
側面に肩書き 氏名 年齢等が刻まれています。
向かって左から、7代 北郷数久公 4代 北郷知久公
囲いの中 左から 2代 北郷義久公 5代 北郷持久公室
7代 北郷数久公後室 金石城で自害した 北郷相久公の廟
7代領主 北郷数久は安永城に隠居し、1521年に亡くなっています。
法名 「釣こう院殿哲翁忠英大禅定門」
「釣こう院」の名称はこの法名からきていると言われています。
敷地の南側に 5代 北郷持久公(1465年 庄内に安永城築城)の墓
歴代の領主名 北郷なのに何で島津?
初代 北郷資忠は鹿児島本家第4代 島津忠宗の六男で、筑前金隅の戦いで戦功があり、時の将軍足利義詮から島津荘北郷300町(前川内村(庄内) 中霧島村 西岳村 山田村 志和池村の一部 野々美谷村 上金田村 川東村の一部 宮丸村の一部 横市村の一部など)を与えられました。資忠は山田町古江に館を構え(1351年)、この地を治めましたが、北郷の地名にちなんで北郷姓を名乗りました。都城島津の始まりです。2代 義久が都城を築城(1375年)するまでこの古江が居城でした。歴代領主が北郷姓を名乗る中で本家島津の名が今日まで続いているのは、時代が下がって寛文3年(1663年)17代領主本郷忠長のとき、島津本家から島津姓を名乗るよう命じられ、北郷姓から島津姓へ復しています。以後都城島津として今日に至っています。従って「釣こう院跡」に残る草創期の歴代領主が北郷姓であるにもかかわらず「島津の墓」と呼ばれるのは以上のような経緯からです。
初代資忠の墓は豊幡神社境内 山久院跡(オサンキン)に有ります。
法名 山久院殿月窓道明居士 「山久院」の名称はこの法名からといわれています。
豊幡神社境内 山久院跡 初代資忠夫妻の墓(囲いの中)
島津の墓が 何で庄内に?
初代 資忠 2代義久 3代 4代知久 5代持久 6代 7代数久と草創期7代のうち5代までもの墓が庄内にあります。ということは当時北郷300町の外回りには敵対する豪族もおる中で、庄内の土地が一番安定していて、中心的役割を果たしており、安住の地として重要視されていたということではないでしょうか。そういう意味でも5代持久親子は安永城を庄内に築城したとも考えられます。草創期は庄内が中心であったということの証しではないでしょうか?
敷地東側中央に榊の生えた石囲いがあります。
これは元金石城にあったものです
10代時久の長男 相久が都城本家の跡目相続の問題のこじれから
父 時久に攻められて無念の自刃をした場所として
金石城跡に石柱で囲み、残していたものです。
現在金石城跡は私有地、台地部は畑地として利用され、中央部に
あった石囲いは耕作の邪魔になると端っこの窪地に移されて
いたものを「庄内昔を語る会」の手で現在地に移されました。
現在金石城跡は土地開発のため採土され南面・西面の
保安林部分が少し原形を留めています。
(庄内昔を語る会編 「庄内」の坂元徳郎氏の研究を基に作成)
(西区PCクラブ)